出木杉が主人公になったら、物語はもっと面白くなるのか、それともつまらなくなるのか
こんにちは!この質問、めっちゃ面白いですね。以前友達とも話したことがあります。もし出木杉くん(多くの地域で小杉とも呼ばれています)が主人公になったら、『ドラえもん』という作品は根本から変わってしまうでしょう。
私の考えはこうです:物語はより深みを増すかもしれないけれど、大衆娯楽の観点から見ると、おそらく退屈なものになる可能性が高い。
以下、その理由を具体的に説明しますね。
もし出木杉が主人公だったら、物語はどうなる?
ドラえもんの「サポート対象」がのび太から出木杉に変わったら、あの定番のストーリーパターンがどう変わるか、想像してみましょう。
1. 物語の核心となる衝突が消える
『ドラえもん』で最も典型的なストーリーサイクルは何ですか?
のび太がトラブルに巻き込まれる (テストで0点、ジャイアンにいじめられる、新しいおもちゃが欲しい) -> 泣きながらドラえもんに助けを求める -> ドラえもんが心を許し、道具を出す -> のび太が道具を乱用/誤用し、事態をめちゃくちゃにする -> 爆笑必至のカオスな結末を迎え、最後に小さな教訓を得る
このパターンが面白いのは、のび太の「不完全さ」ゆえです。彼の怠け心、臆病さ、欲深さこそが、ストーリーを動かす燃料なのです。せっかくのチャンス(ひみつ道具)を台無しにする過程を見るのが楽しく、そこにはドラマチックな要素と笑いが詰まっています。
しかし、主人公が出木杉だったら?
出木杉が問題に直面する (例:複雑な科学仮説を検証したい) -> 冷静に分析し、ドラえもんに協力を依頼する -> ドラえもんが最適な道具を出す -> 出木杉が完璧かつ効率的に道具を使い、見事に問題を解決する -> 物語終了。
ほら、この過程はたった5分で終わるかもしれず、まったく波瀾万丈さがありません。
- 彼はサボろうとして「アンキパン」をお腹パンパンになるまで食べたりしません。
- スネ夫に嫉妬して「もしもボックス」で世界中のおもちゃを消し去ったりもしません。
- ジャイアンにいじめられる確率も極めて低いでしょう。なぜなら彼はEQが高く人望も厚く、ジャイアンとも話が通じるからです。
「完璧」な主人公は、それ自体がトラブルや衝突を生み出す動機に欠けています。これは、優等生が難問をあっさり解くのを見るのと、落ちこぼれがあの手この手で宿題をカンニングしようとするのを見るのと、どちらがよりドラマチックで面白いか? 答えは明らかですよね。
2. 物語のジャンルが「生活コメディ」から「SF探検もの」に変わる
もちろん、出木杉の物語がまったく書けないというわけではありません。ただ、物語のジャンルは根本から変わってしまうでしょう。
のび太が気にするのは、テスト、小遣い、しずかちゃんといった日常の些細なことです。だから『ドラえもん』は日常生活の中のファンタジーであり、親しみやすく温かい気持ちにさせてくれます。
一方、出木杉が気にするのは何でしょう? 宇宙の起源、人類の未来、環境問題、芸術の真髄といったことかもしれません。
だから、出木杉版『ドラえもん』はこんな感じになるでしょう:
- 『時空漂流』:恐竜絶滅の真実をこの目で確かめるため、出木杉とドラえもんはタイムマシンで白亜紀へ戻り、ハラハラドキドキの科学調査冒険に出る。
- 『人工知能の倫理危機』:出木杉は道具を使って自我を持つAIを創り出し、「ロボットは人権を持つのか?」という哲学的命題を探求し始める。
- 『火星テラフォーミング計画』:人類の未来のために、出木杉は詳細な火星地球化計画を立案し、ドラえもんの道具を借りて小規模な実験を開始する。
これらの物語、なんだか「ハードコア」に聞こえませんか? より深みがあり、知識的で、『スタートレック』やアシモフのSF小説のようになるかもしれません。ドラえもんの役割も、「子守り」から「研究パートナー」に変わるでしょう。
しかし、それはつまり、元々の気軽さ、笑い、温かみといった基調を失うことを意味します。全年齢の観客が大笑いし、子供の頃の純真さや友情を感じ取れる作品ではなくなってしまうのです。
結論:なぜ私たちはあの不完全なのび太が好きなのか?
つまるところ、出木杉は「理想」であり、のび太は「現実」なのです。
- 出木杉 は私たちがなりたいと思う人間像であり、「完璧さ」と「達成」を体現しています。彼の物語を見て、感嘆はするかもしれませんが、共感は生まれにくいでしょう。
- のび太 こそが、私たち大多数の実像です。私たちは皆、怠けたり、間違えたり、嫉妬したり、解決できない困難にぶつかったりします。私たちはのび太の中に自分の姿を見るのです。
私たちが『ドラえもん』を好きなのは、単に不思議な道具のためだけではありません。のび太の視点に自分を重ね、彼の喜怒哀楽を体験できるからです。彼がいじめられるのを見ると同情し、道具でいたずらが成功すると一緒にクスッと笑い、最後に全てを台無しにすると「やっぱりのび太だな」と思わず笑みが漏れます。
のび太の「ダメさ」こそが、ドラえもんの存在意義を与えています。彼の不完全さこそが、この「成長物語」をこれほどまでにリアルで貴重なものにしているのです。
だから、もし出木杉が主人公になったら、SFファンの目には「より素晴らしい」物語に見えるかもしれませんが、大多数の一般視聴者にとっては、最も大切なもの——共感と面白さ——を失い、「より退屈な」ものになってしまうでしょう。私たちが愛しているのは、助けが必要だけどいつだって優しい、野比のび太そのものなのですから。