日本ウイスキーの歴史における主要な転換点

Luis Hood
Luis Hood
Fifteen years as a master bourbon distiller.

日本ウイスキーの歴史を語るなら、それはまるで波乱万丈のドラマのように、実に興味深い物語です。重要な転換点としては、主に以下の段階が挙げられるでしょう。

1. 夢の始まり:二人の男の物語

これはまさに日本ウイスキーの「創世記」と言えるでしょう。物語の主役は、鳥井信治郎(サントリー創業者)と竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)の二人です。

  • 鳥井信治郎は、日本で独自のウイスキーを造りたいという先見の明を持つ実業家でした。
  • 竹鶴政孝は、まさに技術の鬼で、単身スコットランドへ渡り、複数の蒸溜所で修業を重ね、ウイスキー造りの全技術を習得しました。そして、スコットランド人女性と結婚もしています。

二人は意気投合し、鳥井が資金を、竹鶴が技術を出し合い、1923年に日本初のウイスキー蒸溜所である山崎蒸溜所を設立しました。これが最初の転換点であり、これがなければその後の全ては語れません。しかし、後に二人は理念の違いから袂を分かち、竹鶴はよりスコットランドに近い北海道へ渡り、余市蒸溜所を設立しました。こうして、今日のサントリーとニッカという二大巨頭が競い合う構図が生まれたのです。

2. お膝元での定着:ハイボールの時代

ウイスキーが初めて登場した頃、日本人はその「スモーキーで癖のある」風味にあまり慣れていませんでした。そこで、皆に受け入れてもらうため、酒造メーカーは素晴らしい方法を考案しました。それが、ウイスキーをソーダ水で割るハイボールです。

1950年代から、特に70年代、80年代にかけて、サントリーはハイボールを国民的飲料にしました。様々な居酒屋や小さな飲食店で、ハイボールを飲むことが一種の流行となりました。これにより、ウイスキーは「洋酒」から日本人の日常的な飲み物へと変化し、日本国内にしっかりと根を下ろしました。これが第二の転換点であり、日本ウイスキー産業が生き残り、成長するための大衆基盤を築いたのです。

3. 世界を驚かせた:受賞ラッシュの始まり

長い間、日本人自身を除けば、世界中の人々は日本ウイスキーをスコッチウイスキーの「模倣品」に過ぎず、一流ではないと考えていました。

この状況は21世紀初頭に完全に変わりました。2001年、ニッカの「余市10年」が国際的なコンテストで大賞を受賞したのを皮切りに、まるでドミノ倒しのように次々と評価が高まりました。その後、サントリーの「山崎」、「白州」、「響」も様々な国際的なブラインドテイスティングで次々と受賞し、スコットランドのトップブランドを何度も打ち破りました。

最も象徴的な出来事は、2013年に**『ウイスキーバイブル』が「ワールド・ウイスキー・オブ・ザ・イヤー」の称号を「山崎シェリーカスク2013」に与えた**ことです。これはまるで核爆弾が炸裂したかのような衝撃を与え、世界中のウイスキー愛好家は「何だって?最高のウイスキーがスコットランドではなく、日本にあるだと?」と驚愕しました。

これが最も重要な第三の転換点です。これ以降、日本ウイスキーは単なる模倣者ではなく、世界トップクラスのウイスキーの一角として広く認められ、独自の「東洋的な禅の精神」と繊細でバランスの取れたスタイルを持つようになりました。

4. 「マッサン」効果と今日の「一瓶難求」

国際的な人気に火がついた後、日本国内でも旋風が巻き起こりました。2014年、NHKで**『マッサン』**という朝の連続テレビ小説が放送され、竹鶴政孝と彼のスコットランド人妻の創業物語が描かれました。

このドラマは大ヒットし、日本中の一般の人々が国産ウイスキーの歴史と職人精神に大きな興味と誇りを持つようになり、国内需要は瞬く間に爆発しました。

国際的な大ヒットに加え、国内での人気も相まって、第四の転換点、つまり今日私たちが肌で感じている原酒不足に直結しました。ウイスキーは長期間の熟成が必要ですが、蒸溜所は90年代の不況期に生産量が非常に少なく、十分な量の原酒を貯蔵していませんでした。その結果、「白州12年」や「響17年」といったお馴染みの年数表記のあるウイスキーが次々と生産終了となり、市場に出回る日本ウイスキーの価格は高騰し、まさに「一瓶難求」の高級品と化しました。

まとめると、日本ウイスキーは、スコットランドを模倣する夢から始まり、ハイボールを通じて日本の文化に溶け込み、世界を驚かせ認められ、最終的には人気が出すぎて「嬉しい悲鳴」を上げるという道を歩んできました。それぞれの転換点には、物語が満ち溢れています。