主題歌「One more time, One more chance」について:山崎まさよしさんのこの曲は、第三話のモンタージュでどのような役割を果たしていますか?単なる背景音楽なのでしょうか、それとも歌詞を通じて登場人物たちの言葉にされなかった感情や物語を補完する、映画の「第二の主人公」と呼べる存在なのでしょうか?
これは極めて的確かつ深い問いですね。『秒速5センチメートル』にとって、『One more time, One more chance』という曲の役割は、決して単なるBGMではありません。
この曲は、映画の**「第二の主人公」**と見なすことができ、またそう見なすべきです。より正確に言えば、**映画全体の「魂のモノローグ」**なのです。新海誠監督は、このMV風のモンタージュを通じて、天才的な物語の融合を成し遂げました。山崎まさよしの歌声を、貴樹、明里、さらには花苗が十数年間も抑圧し、決して言葉にできなかったすべての感情へと昇華させたのです。
1. 役割その一:「ナレーション」として——語られなかった物語を補完する
この曲の最も直接的な役割は、映像では省略されたり、余白として残されたりした筋書きや心情を、歌詞によって的確に「歌い上げる」ことです。
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「これ以上何を失えば 心は許されるの」
- この歌詞が流れる時、画面には大人になった貴樹が感情を失ったように働き、恋人からの別れのメールが映し出されます。これは貴樹の心の葛藤を完璧に表現しています。彼は青春を失い、愛を失い、「今を生きる」能力を失ってもなお、過去への執着から解放されずにいるのです。彼は、あの約束を守れなかった自分を許すために、これ以上どんな代償を払えばいいのか分からずにいます。
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「いつでも捜しているよ どっかに君の姿を」
- 画面は、貴樹が混雑した駅や街の交差点で、無意識に何かを探している様子に切り替わります。歌詞は、彼のこの無意識の行動に明確な動機を与えます。彼はあてもなく彷徨っているのではなく、この広大な世界の中で、現れるはずのない、あの懐かしい面影を虚しく探し続けているのです。
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「奇跡がもしも起こるなら 今すぐ君に見せたい」
- この歌詞は無力な幻想に満ちており、画面に映る貴樹の孤独な姿と強烈な対比をなしています。これは貴樹の心の奥底にある最も深い渇望を歌い上げています。彼は、このどうしようもない現実を打ち破る「奇跡」が起こり、過去に戻るか、あるいはすぐにでも明里の前に現れることを望んでいるのです。しかし、映像は私たちに、奇跡は決して起こらなかったことを伝えます。
この曲の歌詞は、まるで新海誠監督が書き上げたものの、登場人物には語らせなかった脚本のようです。それは観客を登場人物の潜在意識の奥深くへと誘い、彼らの最も真実で、最も痛切な叫びを聞かせるのです。
2. 役割その二:「繋ぎ手」として——三つの時空の断片を繋ぎ合わせる
このモンタージュの巧みさは、直線的な時間軸の物語を打ち破り、過去、現在、そして想像を織り交ぜている点にあります。そして『One more time, One more chance』は、これらの時空の断片を繋ぎ合わせる「糸」なのです。
- 感情の共時性: 歌が始まると、画面は13歳の貴樹、高校時代の貴樹、そして大人になった貴樹の間を素早く行き来します。この曲は観客に、どれだけ時が経とうと、外見がどう変わろうと、貴樹の心の中心にある感情は決して変わっていないことを理解させます。この曲は、彼の十年一日のごとき感情状態の「主題歌」となっているのです。
- 視点の交錯: 画面には貴樹だけでなく、明里が指輪をはめるシーンや、花苗が海辺で涙を流す断片も挿入されます。歌声はこの瞬間、貴樹個人を超え、三人が共有する「すれ違い」と「後悔」に関する詠嘆調(アリア)となります。それは、「前を向いた」はずの明里や花苗でさえ、心の奥底ではあの時代に対する複雑な感情を抱き続けていることを暗示しています。
3. 役割その三:「感情の増幅装置」として——感情を最高潮へと押し上げる
音楽そのものが持つ力強い感情への訴求力。山崎まさよしの少し掠れた、哀愁を帯びた歌声と、メロディの絶え間ない反復と層を重ねるような構成が相まって、比類なき感情的な雰囲気を創り出しています。
- 抑制から爆発へ: 曲の前半は比較的穏やかで、日常的で無感覚な映像と組み合わさることで、抑圧された雰囲気を醸し出します。曲がサビのクライマックスに達し、感情が完全に爆発する時、画面もまた、最も重要で最も美しかった記憶(桜の木の下でのキスなど)をフラッシュバックさせ始めます。この音と映像が同期した爆発は、観客が溜め込んできた感情を一瞬にして決壊させるのです。
- 映画の「基調」を定義する: この曲自体は1997年に作られ、映画よりも10年早い作品です。それ自体が、喪失と探求をテーマにした不朽の名作なのです。新海誠監督がこの曲を選んだことは、事実上、自身の映画に対して、悲しく、ノスタルジックで、それでいてこの上なく深い愛情に満ちた感情的な「基調」をあらかじめ設定したことになります。観客は映画を観る際、無意識のうちにこの曲の感情に導かれていくのです。
結論:映画の魂であり、付属品ではない
したがって、『One more time, One more chance』は決して単なるBGMではありません。新海誠監督は、映画の最も重要な感情のクライマックスと結末の解釈権を、ほぼ完全にこの一曲に委ねるという、大胆な選択をしました。
この曲は映像に「合わせる」のではなく、映像と「対話し」、さらには映像を「導いて」います。それはまるで全知の語り手のように、時の終着点に立ち、時間に引き裂かれた三人の若者の運命を振り返り、そして彼らのため、またすべての観客のために、青春に関する最も華麗で、最も胸が張り裂けるような鎮魂歌(レクイエム)を歌い上げるのです。
このモンタージュがなければ、『秒速5センチメートル』の最後のあの核爆発級の感情的な衝撃力は生まれなかったと言えるでしょう。この歌は、新海誠監督がすべての登場人物に宛てて書いた、最終的に送られることのなかった、最も長く、最も痛切なラブレターなのです。