看護業務で最も「無力感」を感じた瞬間は何ですか?
作成日時: 8/9/2025更新日時: 8/18/2025
回答 (1)
ああ、この質問は本当に私たち看護師の胸に深く刺さります。「無力さ」と言えば数えきれないほどありますが、映画のような劇的なものではなく、むしろ静かで重たい瞬間に多く感じます。
私にとって最も無力を感じるのは、主に以下のような場面です:
### 1. ベッドが空いたとき
患者さんが退院してベッドが空くのは良いことだと思うかもしれません。しかし、ある「空きベッド」は人が亡くなったことを意味します。
前日まで、そのベッドの李おじいさんと冗談を交わし、「今日は食欲がいいから、明日には歩けるよ」と言いながら、体位交換や投薬、処置をしていた。二人の間にはもう馴染みの連携が生まれていました。
ところが翌朝の申し送りで、そのベッドがきれいに片付けられ、シーツは新品のように平らになっているのを見つけるのです。まるで誰もここにいたことがなかったかのように。
その瞬間、胸が「ガクッ」とします。全ての忙しさ、技術、思いやりが、生命の終焉の前には無力に感じられる。きちんとお別れさえできません。この無力感は、何か間違えたからではなく、全力を尽くしてもその人を引き留められなかったことから来るのです。
### 2. 家族の「理解不足」や「非協力的態度」に向き合うとき
私たちはプロフェッショナルです。何が患者にとって最善か知っています。しかし神様ではないので、代わりに決断はできません。
典型的なのは、患者が今すぐ手術が必要で、それが唯一のチャンスなのに、家族が何らかの「民間療法」を信じ込んでいたり、家族内で意見がまとまらなかったりして、なかなか同意書にサインしないケースです。
声が枯れるほど丁寧に説明し、利害関係を細かく伝えても、彼らは疑わしい目で見つめるだけ。あるいは「親戚に電話」を繰り返すだけ。
時間が刻一刻と過ぎ、最適な治療タイミングがこの躊躇いや争いの中で逃げていくのを理解しています。生命が取り返しのつかない結果に向かうのをただ見守るしかない。彼らの選択権を尊重しなければならないからです。それはまるで救命浮輪を持っているのに、溺れる人があなたを信じず、手を伸ばそうとしないような感覚です。
### 3. 患者が「同じ地点」に戻ってくるのを見るとき
特に慢性疾患や生活習慣の問題を抱える患者さんには、病棟で何度も再会することがあります。
例えば糖尿病性足病変の患者。ようやく創傷ケアが成功し、退院時には食事管理や血糖値モニタリングを厳しく指導したのに、数ヶ月もしないうちに同じ問題で再入院。傷は前回より深刻になっている。
「つい…食べ過ぎてしまって」と彼が言うその瞬間、本当に無力感を覚えます。私たちは「病気」を治せても、「生活」まで変えることはできない。病院は一時的な避難場所に過ぎず、24時間生活を監視することは不可能です。この無力感は仕事の限界から来るもので、私たちにできることは本当に少ないのです。
### 4. 「治療」が「苦痛の延長」に変わるとき
これが最も胸が張り裂ける瞬間です。
特に末期の患者さんで、生命が終わりを迎えようとしている場合。医学的には、どんな治療も最後の数日間の苦しみを延長するだけ。身体はチューブだらけで、生活の質は皆無です。
患者本人はもう諦めたいと思っているかもしれません。目には疲労と解放を求める思いがにじんでいます。それでも家族は泣きながら懇願します。「先生、看護師さん、お願いです!助けてください!お金はいくらでもかけます!」
看護師としての使命は救命救護です。しかし「救う」ことが希望をもたらすのではなく、意識がなく苦痛に満ちた生命を機械や薬剤で維持することに過ぎない時、私たちの心は激しく揺れます。これは人を救っているのか? それとも生命の摂理に逆らい、無意味な苦痛を与えているのか?
そんな時、私たちにできるのは医師の指示を実行し、できるだけ苦痛を和らげることだけ。心の引き裂かれるような無力感は、言葉ではとても表現できません。
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結局、看護業務における「無力さ」の多くは技術的な壁ではなく、**人間性、生命の摂理、社会の現実**に向き合った時の深い諦念です。私たちは病気を治せても、「運命」を治せない。人の心も変えられない。
それでもなお、私たちは涙をぬぐい、次の患者が必要とする時にはプロフェッショナルな笑顔を見せます。なぜなら、数えきれない「無力な瞬間」の向こう側に、必ず一つ二つの「あなたがいてよかった」という瞬間があり、それが私たちを歩み続けさせる支えとなっているからです。
作成日時: 08-09 03:41:47更新日時: 08-10 03:21:19