「善人」の定義について:ラウ・キンミンが「善人になりたい」と言った時、それは心からの懺悔なのでしょうか、それとも「善人」という立場を得るための自己欺瞞なのでしょうか。「悪人」が良い行いをすることで、本当に「善人」になれるのでしょうか?

作成日時: 7/24/2025更新日時: 8/18/2025
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はじめに

『インファナル・アフェア』における劉建明(ラウ・キンミン)の「良くなりたい」という台詞は、本作のみならず中国語圏の映画史において最も緊張感に満ちた台詞の一つとなった。この言葉が提起する問題は、単なるキャラクターの運命だけでなく、「善人」という概念そのものに関わるものである:

  1. 彼は心から悔いているのか、それとも自己欺瞞なのか?
  2. 長年悪事を働いてきた者が、いくつかの善行によって真に「善人」になれるのか?

一、「良くなりたい」という劉建明の台詞の文脈と動機分析

観点主な出来事示唆されるもの
生存の危機韓琛(ホン・サム)逮捕、倪永孝(ガイ・ウインハウ)死亡により、劉は黒社会の後ろ盾を失う生命と警察組織内の地位・身分の保全
道徳的衝撃陳永仁(トニー・レオン)が命を賭けて潜入捜査の使命を全う;黄警司(ウォン警部)の遺言「天と地と良心に恥じぬように」良心の目覚め、「正義」への憧れの喚起
アイデンティティの不安10年間「二重スパイ」の狭間で生きる;記録の抹消、同僚殺害を繰り返す偽装生活の終結、「普通の人」への回帰願望

結論:劉建明の動機は複雑で、自己保身の要素を含むと同時に、一時的な道徳的衝撃もあった可能性がある。その誠実さを判断するには、「動機-行動-持続性」をより詳細に見る必要がある。


二、誠実な悔い改めか、自己欺瞞か?——四つの判断基準

  1. 動機の純粋性

    • カント的視点:『道徳法則』への敬意に基づく行為のみが道徳的行為とみなされる。
    • 劉建明の「善」への希求には強い功利的考慮(黒社会からの脱却)が伴う。動機は混在している。
  2. 具体的行動

    • 誠実な悔い改めには代償が伴う:自首、被害者への補償、法的制裁の受諾。
    • 映画内では、陳永仁の記録抹消、見張りの殺害、張(チャン)への罪のなすりつけを実行。身分保全のため悪事を続行。
  3. 持続性と一貫性

    • 徳倫理学は、徳性は長期にわたる一貫した行動によって確固たるものとなると強調する。
    • 劉はラストシーンで梁朝偉(トニー・レオン)に「暴露」された直後に射殺され、改心の長期的軌跡は描かれない。
  4. 自己内省の深さ

    • 真の悔い改めには、過去の罪の全面的な承認が含まれる。
    • 劉は責任から常に逃避し、韓琛に「もう俺を探すな」と言い、自らと罪を切り離そうとする。

四つの観点を総合すると:劉建明はむしろ「自己欺瞞的な悔い改め」——数々の罪とアイデンティティ危機を「良くなりたい」という一言で覆い隠そうとするもの——に近い。


三、「悪人」が善行を行えば「善人」になれるのか?——哲学的視点

  1. 結果主義(功利主義)

    • 善悪は行為がもたらす幸福/苦痛の総量で測られる。
    • 「悪人」が最終的に全体の幸福を増大させれば「道徳的に価値がある」と言えるが、必ずしも「善人」とは呼べない。なぜなら品性は変わっていない可能性があるため。
  2. 義務論(カント)

    • 動機は「義務に基づく」ものでなければならない。
    • 利益や罪逃れのためだけに善行を行うなら、道徳的価値はなく、依然として「善人」ではない。
  3. 徳倫理学(アリストテレス)

    • 「善人」とは良き品性(徳)を持ち、習慣と実践を通じて安定的にそれを示す人物である。
    • 単発の善行では徳性を再構築するには不十分;長期的な自己修正と社会からの承認が必要。
  4. 実存主義(サルトル)

    • 人間は「実存が本質に先立つ」ため、自由な選択によって絶えず自己を定義できる。
    • 「悪人」は運命づけられてはいない;鍵は選択の結果の全てを引き受けるか否かにある。

総括すると:悪人は善人へと変容しうるが、その前提として以下が必要である:

  • 過ちを誠実に反省し認めること
  • 補償と代償を払うこと
  • 持続的な実践を通じて新たな徳性を形成すること

散発的な「善行」や口先だけの願望では、アイデンティティの転換は達成し難い。


四、劉建明は「善人」になれたのか?——仮定的な回答

劉建明が真に「悪から善への」飛躍を成し遂げるためには、以下のことを行うべきであった:

  1. 全ての罪を公に告白し、法的制裁を受ける
  2. 被害者遺族に補償を行う
  3. 警察組織を離れ、新たな人生を始め、長期的な社会奉仕や贖罪行動を通じて社会の信頼を回復する
  4. 自らが「かつて悪を行った者」というレッテルを受け入れ、それと向き合う(歴史を抹消しようとせずに)

映画はこれらのステップを描かず、むしろ彼の死によって突然幕を閉じ、彼が真に「善」へ至る機会を得られなかったことを暗示している。


結論

  • 劉建明の「良くなりたい」は、アイデンティティ危機と道徳的衝撃の中での「自己慰め」または「戦略的表明」の側面が強く、誠実さは不十分である。
  • 道徳哲学では一般的に以下のように考えられている:
    1. 善人は行為の結果だけでなく、動機、徳性、持続性に依存する。
    2. 悪人は改心しうるが、そのためには誠実な責任の引き受けと善行の長期的実践が必要であり、「一善で万悪を償う」ことはできない。

したがって、「悪人」が数回の善行やスローガンだけで「善人」になることは困難である;真の転換とは、長く、苦しく、かつ外部に対して責任を負わねばならない過程なのである。

作成日時: 08-05 09:08:46更新日時: 08-09 21:36:41

「善い人」の定義について:劉建明の「善い人になりたい」という言葉は、真摯な悔悟か、それとも身分保全のための自己欺瞞か?「悪人」が善行を行えば、本当に「善い人」になれるのか?

劉建明が『インファナル・アフェア』で発した「善い人になりたい」という台詞は、本作の核心的な矛盾の一つであり、人間性・道徳・アイデンティティに対する深い問いかけである。この問題を考えるには、複数の視点から分析する必要がある。


一、劉建明「善い人になりたい」の解釈

この言葉には一定の真摯さが込められていると同時に、自己欺瞞と功利主義の色彩が拭いきれない。

1. 真摯な悔悟と願望か?

  • 現状のアイデンティティへの倦怠と恐怖: 警察組織に潜入したマフィア構成員として、劉建明は長年にわたり嘘と偽装の中で生活し、巨大なプレッシャーと苦痛に苛まれていた。陳永仁の悲劇的な結末を目の当たりにし、自らもいつ露見するかわからない「無間地獄」のような状況が、彼に「悪人」という身分に伴う危険と苦痛からの脱却を渇望させた。「善い人」になりたいという願いの根底には、まずこの解放への希求があった。
  • 平凡な生活への憧れ: 公明正大な身分、安定した職業、普通の恋愛(メアリーとの結婚)といった日常を渇望していた。この「普通」への憧れは、ある程度「善」を求める姿勢と見なせる。
  • 残存する道徳観: 数多の悪事に関与しながらも、警察官としての正義と秩序への認識が心の奥底に残っていた可能性がある。「更生」の機会が訪れた時、この残存する道徳観が彼に「正道」への回帰を促した。

2. 自己欺瞞とアイデンティティのすり替えか?

  • 功利主義的動機: 劉建明の「善い人になりたい」は、生存と出世のための「身分の置換」戦略に近い。韓琛を殺害したのは、唯一の証人を消しマフィアとの繋がりを完全に断ち切り、「優秀な警察官」という身分を確立するためだった。この「善行」の動機は純粋な道徳的自覚ではなく、自身の利益と安全のためである。
  • 「善い人」への功利的解釈: 劉建明にとって「善い人」とは、内面的な道徳的資質よりも社会的なラベルや身分として認識されていた。韓琛殺害や陳永仁殺害未遂(口封じのため)といった「善行」で社会的承認を得ようとした。正直さ・無私・自己犠牲といった「善い人」の本質を真に理解していたわけではない。
  • 拭いきれない「悪」の本性: 「善い人」を演じようとも、彼の根底に巣くう利己性・冷酷さ・目的達成のための手段選ばずの本性は変わらなかった。新たな身分を守るためなら陳永仁を躊躇なく殺害し、最終的には調査に来た同僚警官さえも殺害する行為は、彼が真に「更生」していない証左である。「善い人」宣言は自己催眠と外界への偽装に過ぎなかった。

まとめ: 劉建明の「善い人になりたい」は、窮地における自己救済とアイデンティティ再構築の複雑な心理描写である。光明ある生活への渇望と同時に、目的達成のための手段を選ばない功利性に満ちている。真摯な悔悟というよりは、「善い人」という身分への強烈な渇望、そしてそのための自己欺瞞と葛藤である。彼は「善い人」になりたがったが、その行動原理と心の奥底は依然として「悪人」のままであった。


二、「悪人」が善行を行えば、本当に「善い人」になれるのか?

この問いは道徳哲学における行為・動機・人格の議論に関わる。結論はこうだ:「悪人」が善行を行うことは「善い人」になるための必要条件ではあるが、十分条件ではない。

1. 行為と動機の弁証法的関係

  • 行為の善悪: 結果主義(Consequentialism)の観点では、「悪人」の行為が積極的で有益な結果をもたらすなら、その行為自体は「善」である。例:逃亡中の犯罪者が偶然人を助けた場合、救われた者は確かに恩恵を受ける。
  • 動機の善悪: しかし義務論(Deontology)や徳倫理学(Virtue Ethics)の観点では、行為の道徳的価値は結果だけでなく、行為者の動機と内在的品格に依存する。「悪人」の善行が自己利益(更生・処罰回避・称賛獲得など)のためなら、結果が良くとも動機は利己的または不純である。この行為は直接的に「善い人」への変容をもたらさない。

2. 「善い人」への道筋

真の「善い人」になるには、複雑で長いプロセスが必要であり、以下の要素が関わる:

  • 真摯な悔悟と内省: 「悪人」はまず過去の過ちを深く認識し、心からの後悔を抱く必要がある。これは口先だけではなく、内面の深い反省でなければならない。
  • 動機の転換: 自己利益のための行動から、利他・正義・共感といった純粋な善意に基づく行動へと移行する。これが「善行を行う」から「善い人である」への核心的転換点である。
  • 持続的な善行: 善行は一時的な衝動や特定の目的のためではなく、習慣となり生活様式となるべきだ。長期にわたり安定的に道徳規範に沿った行動を続けることで、初めて「善い人」の人格が形成される。
  • 責任の受容と過ちの償い: 過去の過ちに対して、真に「善い人」になろうとする者は、自ら責任を引き受け、他者に与えた傷を埋め合わせる努力をすべきだ。法的処罰も含み、道徳的補償も必要となる。
  • 内在的品格の形成: 「善い人」とは単に「善行を行う」ことではなく、「善い」品格(正直・善良・勇敢・誠実・無私・共感力など)を有することである。これは長期にわたる自己修養と鍛錬を要する。

結論: 「悪人」が善行を行うことは、「善い人」への第一歩、救済を求める始まりと見なせる。しかし動機が不純であるか、内在的品格が根本的に変化していないなら、彼は「善い人を演じている」だけであって「善い人である」わけではない。真の「善い人」のアイデンティティには、行為・動機・品格の一致が必要であり、持続的で内から外への変容プロセスが不可欠である。劉建明の問題は、目的達成のための「善い人演技」に留まり、内在的品格の真の変容を成し遂げられなかった点にある。

作成日時: 08-05 09:18:41更新日時: 08-09 21:50:16