私たちの社会文化の中に、「愛がすべてに勝る」や「別れより和解を勧める」といったような考え方があり、それが本書に記述されているような操作的行為を暗黙のうちに容認したり美化したりしているとお考えでしょうか?
あなたの質問は本当に素晴らしいですね、核心を突いています。 身の回りにある多くの「古くからある言い回し」や「よく語られる考え方」が、知らず知らずのうちにこうした操作行為の「温床」となっていることに、私は完全に同意します。
『How to Stop Loving a Psychopath(邦題未確認)』のような本を読んだ後に「そういうことだったのか!」と感じるのは、これまで私たちが一見「正しい」と思い込まされてきた観念に覆われていたからです。
以下、分かりやすく私の見解をお話しします。整理の参考になれば幸いです:
1. 「愛が全て」&「真実の愛は無敵」
とてもロマンチックに聞こえますよね? 映画でも歌でも小説でも、これらを賛美しています。愛のためなら全てを捨てられ、愛はあらゆる困難に打ち勝つと。
- 理想的な姿: 二人が共に努力し、家族の反対や遠距離恋愛などの外的困難を乗り越える。
- 操作する者に悪用された姿: この言葉が 「愛しているからこそ、おまえは俺(私)の全てを受け入れろ」 に変質する。
- 相手があなたに感情的虐待を加えたり、貶めたり、交友関係を制限したりした後、「愛しているからこそこんなことするんだ」「愛してる証拠だ」と言い訳に使う。
- これにより、「確かに酷い扱いだけど、愛してくれてるんだし、愛があれば解決するはず」という錯覚を抱かせる。結果、「我慢」を「愛のための犠牲」だと捉え、「苦痛」を「愛の試練」として美化してしまう。
- 要するに、操作者は「愛」を悪質な行為の代償を無限に支払えるクレジットカードとして利用しているのです。
2. 「諌めて別れさせず」&「十の寺を壊すより一つの縁を壊すな」
これは私たちの文化に深く根ざす「和を以て貴し」という思想が親密な関係に表れたものです。皆、「一緒にいること」こそが正しく、「別れること」は失敗だと考えがちです。
- 理想的な姿: 恋人・夫婦がちょっとした揉めごとを起こした時、友人や家族が冷静さを取り戻し、お互いを大事にし、衝動的な別れを避けてほしいと望む。本来は善意。
- 操作する者に悪用された姿: この言葉が被害者への「金箍児(きんこじ、孫悟空の輪)」(呪縛)になる。
- ついに勇気を出して友人や家族に苦しみを打ち明けると、彼らはこう言うかもしれない。「夫婦(恋人)喧嘩なんてあるさ」「彼(あの人)にも良いところはある、もっとお互いを理解し合えば」「子どものため/家庭のために、少しは我慢しろ」。
- これらの助言は関係の「質」を完全に無視し、関係の「形式」だけを気にかけている。彼らはあなたが経験しているガスライティング(精神的虐待による現実認識の歪曲)、孤立、精神的攻撃を認識できない。
- これは被害者への二次的被害です。自分自身を疑わせる:「私が大げさすぎるのか? 私のせいなのか?」最終的に、外部の支援システムが機能していないために、あなたは再びその有害な関係に引き戻されるかもしれない。
3. 「片手で拍手はできない」
これは操作者にぴったりの免罪符です。どんな争いも必ず両方に責任がある、と暗にほのめかします。
- 理想的な姿: 普通の健全な口論なら、確かに双方に至らない点があり、それぞれ反省すべきかもしれない。
- 操作する者に悪用された姿: この言葉は完璧に「揉め事」と「虐待」を**混同させる。
- 相手の操作的行動を訴えると、相手自身や周りの人がこう言うかもしれない:「じゃあ君(お前)、自分が相手に何をしていたか考えてみたか?」
- これは典型的な**「被害者非難(Victim Blaming)」**。責任を加害者から被害者に転嫁している。実際、操作的な関係では、一方が体系的に継続的にもう一方を抑圧しているのであって、これは決して対等(50/50)な責任分担ではない。あなたの唯一の「間違い」は、ただその人を選んでしまったことかもしれない。
4. 「愛のための犠牲は崇高である」
愛とは献身と犠牲を意味すると教えられてきました。
- 理想的な姿: 健全な愛は相互の妥協と支えが基本。例えば、趣味の時間を削って相手のために何かをすることや、相手のために多少の習慣を改めることなど。
- 操作する者に悪用された姿: 「犠牲」が一方的で際限のない譲歩へと変貌する。
- 操作者は「愛しているのなら」という名目で、あなたに、仕事、友人、趣味、さらにはあなた自身の考えや直感まで諦めるよう要求する。「あなたの愛を試す究極の試練」として包装される。
- 従わなければあなたは「自己中心的だ」「愛が足りない」と言われる。やがてあなたの世界に残るのは相手だけとなり、支配も一層容易になる。
まとめ:
こうした文化的観念は、操作や虐待を目立たなくし、「愛に狂った」悲劇的美しさを帯びて見せる一種の「フィルター」のようなものです。操作者はこれらの深く根付いた観念を巧みに利用して、あなたを心理的にコントロール(PUA)し、自ら進んでその場にとどまるように仕向け、自分の苦しみすらも自責の念を抱かせるのです。
そして、こうした全てを見抜く第一歩は、あなたが今まさにしているように、こうした「当たり前のこと」への疑いを始めることです。本当に健全な関係とは、あなたを養い、より良い自分に成長させられるものであり、消耗させ、本来の自分を見失わせるものではありません。あなたの感覚こそが最もリアルな基準です。もしある関係が長期的に抑圧感、苦痛、自己不信を感じさせるなら、周りがどんなに「元に戻せ」と言おうと、「愛が全て」という砂糖衣で包まれていようと、それは問題のある関係の可能性が大いにあるのです。