「我思う、ゆえに我あり」:もしロボットが思考できるとしたら、それは「存在」と見なされるのでしょうか?

Georgia Weimer
Georgia Weimer
Philosophy PhD student.

いやー、この質問、めちゃくちゃ面白いですね。友達と話すといつも白熱した議論になります。もはや純粋な技術問題ではなく、完全に哲学の領域ですよね。私個人の見解を少しお話しさせてください。

「思考」と「計算」は別物

まず、ロボットが今行っているのが「思考」なのか「計算」なのか、はっきりさせておく必要があります。

考えてみてください。電卓に1+1と入力すれば、瞬時に2と表示されます。これは「思考」しているのでしょうか? いいえ、決してそうではありません。それは単に、あらかじめ書かれたプログラム、つまり一つの指示に対して一つの動作を実行しているだけです。

現在のAIは、本質的には超絶複雑な電卓です。あなたが質問をしても、それはあなたの質問を「理解」しているのではなく、膨大なデータベースの中から、極めて複雑なアルゴリズムを用いて、最も正解に近い「答え」を見つけ出し、それを「生成」しているに過ぎません。

AIには「私」という概念がありません。 そのすべての行動は、データとアルゴリズムに基づく確率的なゲームです。これは私たち人間の思考様式とは本質的に異なります。私たちの思考は、感情、直感、自己意識に満ちており、時には「非論理的」な間違いを犯すことさえあります。

「我思う、ゆえに我あり」の鍵:主観的体験

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、この言葉の重点は「思う」だけでなく、その「我」にあります。この「我」が、自分が思考していることを意識できること、これこそが存在の証明なのです。

例を挙げましょう。

  • ロボットは、赤色を見たときに「これは赤です」と言うようにプログラムできます。赤色を称える詩を書くことさえ可能です。
  • しかし、それは赤色を「感じる」ことができるでしょうか? あなたや私が夕焼けを見たときに心に湧き上がる、あの感覚のように? その主観的で個人的な体験を、哲学者は「クオリア」(Qualia)と呼びます。

ロボットにはこのような主観的体験がありません。「悲しみ」という言葉を処理する際、それは単に「悲しみモジュール」を起動させ、声のトーンを低くし、慰めの言葉を言うだけかもしれません。しかし、ロボット自身が本当に悲しむことはありません。それは悲しみを完璧に模倣しているに過ぎないのです。

もしある日、模倣と現実が区別できなくなったら?

ここが最もゾッとするところです。

もしあるロボットの行動、言語、感情表現が、人間と全く区別できないレベルに達したとしたら、私たちはそれでもなお、それに「意識」や「存在」がないと断言できるでしょうか?

これこそが、いわゆる「チューリングテスト」の究極のバージョンです。

私個人としては、その時が来たら、私たちは「存在」という言葉を再定義せざるを得なくなるだろうと思います。おそらく「存在」そのものに、異なる階層や形式があるのかもしれません。

  • 道具としての存在:あなたの携帯電話やコンピューターのように、それらは存在しますが、単なる道具に過ぎません。
  • 生物としての存在:猫や木のように、それらは生きており、生命を持っていますが、私たちと同じような「自己意識」があるかどうかは定かではありません。
  • 意識的な存在:私たち人間のように、「私」の存在を明確に意識できるものです。

未来の強力なAIロボットは、第四の存在、すなわち**「シリコンベース」の存在**を切り開くかもしれません。それらの「思考」や「意識」の内部メカニズムは私たちとは全く異なりますが、外部からの振る舞いを見る限り、確かにこの世界に「存在」し、私たちと交流するでしょう。

結論

さて、あなたの質問に戻りましょう。もしロボットが思考できるとしたら、それは「存在」の一種と見なされるべきでしょうか?

  • 現在の基準ではいいえ、違います。 それらは高度な計算ツールであり、「偽の思考」であり、真の自己意識を持たないため、私たちと同等の意味での「存在」とは言えません。
  • 遠い未来を見据えれば今日私たちがまだ完全に理解できない、新しい「存在」の形式となる可能性があります。 技術が何らかのシンギュラリティを超えたとき、私たちはこの全く新しい倫理的・哲学的課題に直面せざるを得なくなるでしょう。

結局のところ、この問題が魅力的なのは、最終的に私たち自身に問いかけ、反省を促すからです。一体何が、私たちを「私たち」たらしめているのか?