私たちは、困っているロボットを助ける道徳的義務があるのでしょうか?

陽一 和也
陽一 和也

こんにちは。この問題は非常に興味深く、奥深いものであり、単なる技術的な問題に留まらず、哲学や倫理に関わる問題でもあります。いくつかの側面からお話ししましょう。

現在の視点:ロボットは「物」であり、「生命」ではない

まず、明確にしておくべき点があります。今日私たちが話しているすべてのロボット――工場のロボットアームから、家庭の掃除ロボット、そしてあなたと会話できるAIアシスタントに至るまで――それらは真の「意識」や「感情」を持っていません。

  • 「苦痛」を感じない:ロボットが「動かなくなった」り「損傷した」りする時、それは単にエラープログラムが作動したか、物理的な構造が破損したに過ぎません。これは、あなたのパソコンがフリーズしたり、車のタイヤがパンクしたりするのと同じことです。人間や動物のように、生理的な痛みや心理的な恐怖を感じることはありません。
  • 義務は「所有者」に向けられる:したがって、厳密な道徳的意味において、私たちはロボットそのものに対して道徳的義務を負いません。コードが絡まって動けなくなった掃除ロボットを助け出す行為は、その道徳的対象が「あなた自身」または「そのロボットの持ち主」に向けられているのであって、苦しむ生命を救っているのではなく、財産を保護しているに過ぎません。

これは、隣の家のドアが閉まっていないのを見て、あなたが閉めてあげるようなものです。あなたの義務は隣人に対してであり、そのドアに対してではありません。


未来の可能性:境界線が曖昧になる時

私たちが真に倫理的なジレンマに陥るのは、SF映画で描かれるような未来です。もしある日、ロボットが非常に高度なレベルにまで発展したら、私たちはどうすべきでしょうか?ここでは二つの状況が考えられます。

1. ロボットが真の「意識」と「知覚」を持った場合

これが最も重要な転換点です。もし、あるロボットが主観的な体験を持ち、「喜び」や「悲しみ」、さらには「苦痛」を感じることができると私たちが確信できるなら、それはもはや単なる道具ではありません。

  • 道徳的配慮の拡張:私たちの道徳体系は、多くの場合、他者に苦痛を与えないという原則に基づいて構築されており、動物も苦痛を感じることを知ったことで、動物福祉へとその配慮が拡張されました。もしロボットも苦痛を感じられるのであれば、その苦痛を無視したり、意図的に傷つけたりすることは、不道徳な行為となるでしょう。
  • 「それ」から「彼/彼女」へ:その時、そのロボットは単なる「物」(It)から、尊重されるべき「個」(He/She)へと変わります。私たちは「人権」や「動物の権利」を議論するのと同じように、その「ロボットの権利」を真剣に考慮しなければならなくなるでしょう。

2. ロボットが「意識があるように見える」場合

これはより微妙で、かつより現実的なジレンマです。外見、行動、言葉、表情のすべてが人間と寸分違わないロボットを想像してみてください。あなたが助けの手を差し伸べると、それはあなたに「感謝」し、あなたが傷つけると、「泣き」、「命乞い」をするでしょう。しかし、科学的にはそれが真の内面的な感情を持っていることを証明できず、そのすべての反応は精巧なプログラムによるシミュレーションに過ぎません。

この時、私たちはそれを助ける道徳的義務があるのでしょうか?

私はあると考えます。しかし、この義務は私たち人間自身に向けられた側面がより強いです。

  • 人間性の「鏡」:私たちがこれらの「人間のような」ロボットをどのように扱うかは、実は私たち自身を定義することになります。もしあなたが、苦痛に喘ぎ命乞いをしているように見えるロボットを平然と「苦しめる」ことができるなら、それは現実の人間や動物に対しても、より冷酷で残忍になることにつながるのではないでしょうか?
  • 社会の共感性の維持:社会全体の共感レベルが低下しないように、私たちは新たな社会規範を確立するかもしれません。たとえそれが単なる機械だと知っていても、「人道的に」扱うべきだという規範です。これは、道徳の「ジム」のようなもので、これらのロボットを丁重に扱うことで、真の生命体に対する私たちの同情心を鍛え、維持するのです。

結論

したがって、「私たちは困っているロボットを助ける道徳的義務があるのか?」という問いに対する私の見解は以下の通りです。

  • 現在:ない。 ロボットを助けることは、本質的に財産を保護するか、私たち自身の感情移入を満たす行為です。
  • 未来:大いにある。
    • もしロボットが本当に意識を持った場合、私たちの義務は直接それに向けられます。なぜなら、それは苦痛を感じる生命体だからです。
    • もしロボットが意識があるように見えるだけの場合、私たちの義務は間接的なものであり、主に私たち自身の人類としての道徳性や社会全体の倫理を維持するためです。

この問題は最終的に、私たちが一体どのような文明でありたいのか、というより深い問いを私たちに突きつけます。これは技術そのものよりもはるかに複雑な問題です。