私たちの記憶は、実際の経験によって形成されるのか、それとも私たちが絶えず「再話」し「伝播」する物語によって形成されるのか?
はい、この質問は本当に核心を突いていますね。なぜなら、それは私たち「人間」の本質的な秘密に触れるものだからです。これは「どちらか一方」を選ぶ問題ではなく、「両者がどのように絡み合うか」という相互作用の問題なのです。
私たちの経験を、映画の**「ローフッテージ」(生の映像素材)と想像してみてください。そして、私たちの記憶は、丹念に編集され、音楽が付けられ、ナレーションが加えられた「劇場公開版」**にあたります。
この二つはどちらも不可欠ですが、私たちが最終的に脳内で繰り返し「再生」し「共有」するのは、間違いなくあの「劇場公開版」の方です。
では、このプロセスを分解してみましょう:
まず第一に、「実際の経験」という土台がなければ、すべては砂上の楼閣です
これは映画制作に似ています。まずカメラで撮影した素材が必要です。私たちの感覚——視覚、聴覚、嗅覚、触覚——が、私たちのカメラなのです。
- 経験は出発点です:あなたが何らかの形で触れたことのない出来事を、いきなり「覚える」ことは不可能です。自分が実際に参加したサッカーの試合であれ、本で読んだ歴史的事件であれ、必ず最初の「情報入力」が存在します。
- しかし、この出発点すら「純粋」ではありません:非常に重要なのは、経験が起きているその瞬間でさえ、私たちの「記録」は100%客観的ではないということです。その時の気分(緊張?興奮?)、注意力(相手の目しか見ていなくて、靴は覚えていない)、体調(疲れている?お腹が空いている?)——これらが最初から、あなたの「素材」に何が記録され、何が漏れたかを決定します。これ自体がすでに認知バイアスなのです。
つまり、「実際の経験」は記憶の礎石ですが、それは最初から完璧で無傷の、整然とした石ではないのです。
そして、本題がやってきます:「再話」と「伝播」というハサミ
生の素材ができたら、本当の「魔法」は編集室で起こります。私たちが過去の出来事を「思い出す」たび、あるいは「誰かに話す」たびに、それは生の素材を新たに編集していることになります。これが**ナラティブ心理学(物語心理学)**の核心です。
この編集プロセスには主にいくつかの目的があります:
-
「筋が通る」ように空白を埋める(認知的連続性) 私たちの脳は、話に「穴」があることを非常に嫌います。そのため、無意識のうちに、忘れてしまった部分や最初から注意を払わなかった部分を、「もっともらしい」細部で埋めようとします。例えば、あの日の夕食に具体的に何を食べたか覚えていなくても、話を完結させるために「軽く簡単な食事をしたよ」と言うかもしれません。この「簡単な食事」は、物語をスムーズにするために脳が「補完」したものです。やがて、あなたは本当に「簡単な食事を食べた」と「思い込む」ようになるのです。
-
「共感を得る」ために筋書きを調整する(コミュニケーションの観点) 友達に自分の不運な一日を話す時、もし彼らがある細部を大笑いしたら、次に話す時にはその笑いのポイントを誇張したり、尾ひれをつけたりする可能性が高いでしょう。逆に、ある場面が聞き手に退屈に思われたら、次回はその部分を飛ばしてしまうかもしれません。このプロセスは、コメディアンがネタを磨くのと同じです。物語は伝播の中で聞き手の反応によって形作られ、最終的に残るのは、最も感情的な共感を呼び起こすバージョンなのです。
-
「自分は何者か」のために主人公を形作る(自己同一性) これが最も深い点です。私たちは自分自身の人生の主人公です。物語を再話する時、私たちは無意識のうちに、自分がなりたい姿に自分自身を描こうとします——被害者かもしれないし、ヒーローかもしれないし、滑稽な道化役かもしれません。例えば、失敗した面接の経験を、最初は準備不足で落ち込んだと思っていたとします。しかし、何度も話すうちに、「あの面接官が変だった」とか「あの失敗から貴重な教訓を得たからこそ、今の自分がある」という風に変わっていくかもしれません。物語の基調が変わり、その記憶の中でのあなたの役割も変わるのです。これは直接、あなたの自己同一性に関わってきます。
「私の物語」から「私たちの物語」へ:集合的記憶の誕生
ある物語があなた一人だけでなく、集団(例えば家族、会社、あるいは社会全体)の中で語り継がれるようになると、この「編集」プロセスはさらに複雑になります。
例えば、ある家族旅行で、お父さんは道中の苦労を覚えていて、お母さんはホテルの快適さを覚えていて、あなたはビーチのアイスクリームを覚えているとします。しかし数年後、食卓で繰り返し語られるのは、あの「家族全員で協力して車を泥沼から押し出した」という英雄的な出来事かもしれません。やがて、この「団結」の物語がその旅行の**「公式の集合的記憶」**となり、些細なことやこのテーマに合わない記憶は薄れていきます。国家の歴史や民族の伝説も、同じように形成されるのです。
結論:私たちは自らが監督する「人生映画」の中で生きている
さて、あなたの質問に戻りましょう:
私たちの記憶は、実際の経験と物語(ナラティブ)が共同で作用した産物です。それはまるで彫刻のようで、実際の経験が原石であり、私たちが繰り返し語り、共有するたびに、それはひと彫りずつ形作られていくのです。
最終的に、私たちが手にし、他人に見せ、自分自身に残すのは、私たち自身と他者によって共同で磨かれ、滑らかで流れるようなラインを持ち、明確なテーマを持つ彫刻です。それは原石に由来しますが、もはや原石そのものの姿ではありません。
これは欠陥ではなく、私たち知的生命体が経験に意味を与え、自己を構築し、他者とつながるための独特の方法なのです。私たちは皆、自らの人生の一人称語り手(ナレーター)なのです。