それは倫理学においてどのような困難に直面する可能性がありますか?

直樹 淳
直樹 淳
Researcher in AI, uses first principles for novel designs.

そうですね、「第一原理」をロケット製造や電気自動車開発に適用するのは素晴らしいことです。なぜなら、それは物理世界の課題を扱い、標準的な答えがあるからです。しかし、これを倫理学、つまり「人間はどう行動すべきか」という問題に適用すると、はるかに厄介になります。主に以下の大きな落とし穴があります。

1. その「第一原理」となる「公理」が見つからない

物理学では、第一原理の出発点は「光速不変の原理」や「エネルギー保存の法則」といった、誰もが認め、繰り返し検証できる公理です。しかし、倫理学において、この最も根源的な公理とは何でしょうか?

  • 「最大多数の最大幸福」(功利主義)でしょうか?では、5人の幸福のために、罪のない1人を犠牲にしても良いのでしょうか?
  • 「決して嘘をついてはならない」(義務論)でしょうか?では、友人を追い詰める殺人犯に対して、真実を語るべきでしょうか?
  • 「自分のためになることだけをすれば良い」(利己主義)でしょうか?それでは社会は混乱しませんか?
  • 「神/天が言ったことが正しい」でしょうか?しかし、誰が神が何を言ったかを証明でき、また信仰を持たない人々をどう説得するのでしょうか?

ご覧の通り、倫理学の出発点自体が「信仰」の問題であり、人々は何千年もの間、その基礎がどのようなものであるかについて議論してきました。積み木を組み立てるように、誰もが認める出発点から積み上げていくことはできません。これが最も致命的な困難です。

2. 人間は純粋な理性の機械ではない

第一原理は非常に「クール」な思考ツールであり、冷静で、理性的で、感情を伴いません。しかし、倫理や道徳はまさに「熱い」ものであり、人間の感情、共感、直感、そして文化的伝統に深く根ざしています。

古典的な例を挙げましょう。あなたは陸橋の上に立っていて、制御不能になった路面電車が5人に衝突しようとしているのを目撃しました。あなたの隣には太った人がいて、彼を突き落とせば路面電車を止め、その5人を救うことができます。

純粋な「第一原理」(例えば功利主義:5人の命 > 1人の命)からすれば、突き落とすのが「正しい」行動です。しかし、ほとんどの正常な人の第一反応は、「そんな恐ろしいこと、私にはできない!」でしょう。この「できない」という感覚こそが、感情と直感が働いている証拠です。倫理問題が人間の感情を完全に無視して導き出された結論は、往々にして反人間的なものとなります。

3. 現実世界は複雑すぎ、変数が多すぎる

第一原理的思考は、問題を最も核心的な要素に単純化することを好みます。しかし、人間社会は極めて複雑なシステムです。一見単純な道徳的決定の背後には、文化、歴史、個人的な関係、権力構造など、無数の変数が絡んでいる可能性があります。

例えば、「借金は返済する」という原則は非常に基本的なものに聞こえますよね?しかし、もし借金をしているのが飢え死に寸前の貧しい人で、貸し主が億万長者で、そのお金が貸し主にとっては取るに足らないもので、貧しい人にとっては命綱である場合、この「借金は返済する」という単純な原則は、果たしてそれほど当然のことと言えるでしょうか?

単純で普遍的な原則を、無限に複雑で特殊な状況に満ちた現実に適用しようとすると、往々にして壁にぶつかります。

まとめ:

第一原理を倫理学に適用することは、数学の公式という鍵で、人の心でできた錠を開けようとするようなものです。

それは全く無用というわけではありません。それは「みんながそうしているから私もそうする」という思考の固定観念から抜け出し、私たちが当たり前だと思っている道徳観念に本当に道理があるのかを反省するのに役立ちます。

しかし、その最大の困難は、倫理の世界には普遍的に認められた「物理法則」がなく、感情の温かさと複雑な人間関係に満ちていることです。純粋に理性的で、唯一の根本原則ですべての人の行動を導こうとすると、際限のない議論に陥るか、あるいは非常に恐ろしい結論を導き出すかのどちらかになるでしょう。