軽井沢ウイスキーは、歴史的に見て日本国内市場で過小評価されてきたのでしょうか?

Raghav Sharaf
Raghav Sharaf
Global whisky writer and tasting competition judge.

はい、完全に無視されていたと言っても過言ではありません。それも並大抵の無視ではありませんでした。

例えるなら、軽井沢ウイスキーの今日と昨日では、まるで世界が違います。それは、才能に溢れながらも時代に恵まれなかったインディーズバンドのようです。活動中はほとんどファンがいなかったのに、解散から何年も経って、彼らのレコードは高値で取引され、誰もが彼らを伝説と呼ぶようになりました。

具体的に、なぜ当時日本の国内市場でこれほど苦戦したのか、主な理由は以下の通りです。

1. あまりにも「硬派」な味わいで、主流に合わなかった

軽井沢がまだ活動していた1980年代から90年代にかけて、日本のウイスキー市場の主流は何だったでしょうか?それは、サントリーやニッカのブレンデッドウイスキー、例えばお馴染みの角瓶やブラックニッカなどでした。人々が慣れ親しんでいた飲み方は、水割りやハイボールで、爽やかで飲みやすい口当たりが求められていました。

一方、軽井沢はどうだったかというと、非常に伝統的なスコッチスタイルを追求していました。使用する大麦(ゴールデンプロミス)やシェリー樽には惜しみなくコストをかけ、非常に力強く、濃厚で、複雑な風味を持つウイスキーを造り出していました。このようなウイスキーは、当時気軽に一杯飲みたいと考えていた一般の消費者にとっては敷居が高すぎました。まるで、ポップソングを聴きたいだけなのに、複雑な交響曲を聴かされるようなもので、ほとんどの人はその良さを理解できませんでした。

2. 経済環境の悪化で、ウイスキーが売れなかった

1980年代末から、日本のバブル経済が崩壊し、「失われた20年」に突入しました。人々の消費能力と意欲は大幅に低下しました。ウイスキーのような「洋酒」の売上は急落し、人々はより安価な焼酎やビールを好むようになりました。

このような経済環境下では、サントリーやニッカのような大手でさえも倹約を強いられる状況でした。ましてや、生産量が少なく、コストが高く、利益も上がらない軽井沢のような小さな蒸溜所には、生き残る余地は全くありませんでした。

3. 親会社からの支援がなく、誰も投資したがらなかった

軽井沢蒸溜所の当時の親会社は「メルシャン」で、ワインを主力とする企業でした。ウイスキー事業は彼らにとって副業に過ぎず、しかも毎年赤字を出す副業でした。

考えてみてください。市場が低迷し、製品が売れない状況で、親会社がこの「底なし沼」にマーケティングや運営維持のためにお金を投じるはずがありません。そのため、2000年に彼らは最終的に生産中止を決定し、この蒸溜所を閉鎖しました。

その後の話は、ご存知の通りです。

21世紀初頭、ジャパニーズウイスキーは国際的な賞を次々と受賞し始め、世界のウイスキー愛好家たちは突如として、東洋にウイスキーの宝があることを発見しました。この時、目の肥えたヨーロッパのインディペンデントボトラー(例えば、イギリスのナンバーワンドリンクス社など)が、封印されていた軽井沢の原酒在庫を発見しました。彼らはこれらのウイスキーを買い取り、再パッケージして国際市場に投入しました。

結果、大成功を収めました!その力強くクラシックなシェリー樽の風味は、世界のコアなウイスキー愛好家の心を鷲掴みにしました。「閉鎖された伝説の蒸溜所」(サイレントディスティラリー)というステータスがもたらす希少性も相まって、価格はロケットのように高騰し、最終的には今日私たちが目にするオークションでの高値の神話となったのです。

したがって、まとめるとこうなります。軽井沢は、国内で活動していた頃は、そのニッチなスタイルと不況の市場のために完全に無視されていました。しかし、「死後」に世界に発見され、最終的に伝説となりました。 その物語は、まさに「壁の中で咲いた花が壁の外で香る」、あるいは「人が去って初めてその価値が認められる」という、劇的なケースと言えるでしょう。