TOK(知識論)を学ぶ際、第一性原理は「知識の起点」を分析する上でどのように役立ちますか?

博 周
博 周
Entrepreneur, leveraging first principles for innovation.

こんにちは、この問題はなかなか面白いですね。私の考えを、平易な言葉で話してみようと思います。

こう考えてみてください。私たちが普段何かを学んだり、世界を認識したりする時、多くの場合「レシピ通りに料理を作る」ようなものです。レシピに塩を大さじ3杯と書いてあればその通りにし、20分煮込むと書いてあればその通りにします。この「レシピ」とは、私たちが人から聞いたり、本で読んだり、あるいは慣習として受け入れているルールや知識のことです。

一方、「第一原理」という思考法は、レシピをただ見るだけでなく、こう考えるように促します。「待てよ、この料理になぜ塩を入れるんだ?塩の役割は何だ?風味を増すためか?脱水のためか?それとも防腐のためか?塩以外に似たような効果を持つものはないのか?醤油?オイスターソース?それらの根本的な違いは何だ?」

ほら、そう考えると、あなたは単にレシピをコピーするのではなく、「料理を作る」という行為の最も根本的な要素と論理を探求し始めるのです。

さて、TOK(知識の理論)と「知識の出発点」という問題に戻りましょう。

TOK自体が、非常に根本的な問いを投げかけています。例えば、「私たちは、知っていることをどのようにして知るのか?」「知識というこの巨大な建物の、最初のレンガはいったい何なのか?」

私たちは通常、知識の出発点は「百聞は一見に如かず」ではないか、つまり「見ればわかる」と考えるでしょう。あるいは「先生が教えてくれたこと」や「本に書いてあること」だと。これらは「レシピ」の工程のようなもので、私たちはそれに慣れ親しんでおり、当然のことだと感じています。

しかし、第一原理で分析すると、あなたは「異議を唱え始める」でしょう。

  1. 「百聞は一見に如かず」に異議を唱える

    • 「見る」という行為の本質は何だろう?光が目に入り、網膜が電気信号に変換し、脳がその信号を「解釈」する。
    • では、このプロセスは100%信頼できるのか?光は歪むことがある(例えば、水中の箸は曲がって見える)、目は疲れる、脳の解釈は私の過去の経験や偏見を伴う(例えば、様々な錯視画像)。
    • だから、「見る」こと自体は、絶対的に信頼できる、最も基礎的な「知識の出発点」ではない。それは私たちが情報を受け取るための一つの経路に過ぎず、しかもこの経路は問題を起こす可能性がある。では、「見る」ことよりもさらに根本的な出発点とは何だろう?「私はある信号を知覚した」ということだろうか?ほら、こうして深く掘り下げていくのです。
  2. 「論理的推論」に異議を唱える

    • ある人は、知識の出発点は論理と理性だと言う。例えばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」のように。彼はあらゆるものを疑い、最終的に「疑う」という行為自体が「私」の存在を証明すると発見した。これは非常に堅固な出発点のように見える。
    • しかし、第一原理でさらに問い続けると、論理自体はどこから来たのか?最も基本的な公理(例えばA=A)は、なぜ正しいと私たちが考えるのか?それは自明なのか?より基本的なものに分解できるのか?私たちは論理に頼って推論を行うが、論理というツール自体の信頼性、その「出発点」はどこにあるのか?

だから、第一原理が「知識の出発点」を分析する際に果たす役割は、「出発点はAだ」とか「出発点はBだ」といった標準的な答えを与えることではありません。

その役割は、あなたに鋭い「小刀」を与え、自らを「知識の出発点」だと主張するすべての候補者(例えば、感覚、理性、言語、記憶など)を一層一層剥がし、後天的に加えられたもの、慣習的なもの、当然だと思われている外殻をすべて取り除き、最後に残る最も硬く、これ以上分解できない「核」が何であるかを見極めることです。

この方法を使えば、あなたは「知識は感覚から来る」とか「知識は理性から来る」といった既成の結論を、ただ鵜呑みにするのではなくなります。むしろ、これらの結論の根拠が本当にしっかりしているのかどうかを、自分の手で検証するようになるのです。この「自ら検証し、根本を突き詰める」プロセスこそが、TOKという科目の最も核となる精神であり、第一原理が提供できる最大の助けでもあります。それはあなたを知識の「消費者」から、知識の「品質検査官」へと変えるのです。